はっきり言うが、国家の終焉である



【響堂雪乃氏/2013/5/16のブログから転載】

この国において、もはや資本主義は成立しない。

行政は原発事故による補償を、1年内で打ち切るとの方針を示したのだが、それは憲法第29条、つまり市場経済成立の最低要件である「国家による私的財産の保障」の無効を意味するのだから、信用創造機能が破綻することは明らかだ。

土地や住宅、農林水産業権、社屋や生産設備、企業利益や福利厚生、健康被害などを全面的に賠償するとすれば、国家資産すべてをもっても不可能なのだから、社会暴力によって沈黙をコンセンサスとするしかないのだろう。

彼らは行為が経済論理にかなうかのように錯覚しているのだが、それは合目的という幻想であり、個人資産また法人資産は金融機関の担保と同義であるのだから、それらの劣化は与信システムを直撃し、破滅は地方銀行から都市銀行、さらにメガバンクから中央銀行まで連鎖していく。

どれほど金融緩和したところで、BIS規制に縛られる銀行群は、担保劣化による自己資本率の低下を、貸し剥がしによって補うことは明らかなのであり、それが意味するところは、倒産と失業の激増であり、壊滅的なGDPの縮小であり、金融市場の全面的な暴落であり、これに依拠する年金など社会保障のバック・クラッシュであり、はっきり言うが、国家の終焉である。

民主主義であろうが専制主義であろうが、国家とはおおよそ資本と官吏により私化された体系であり、社会システムとは彼らの利益最大化を目的とする諸制度の集積であり、議会制度による民意集約という概念もまたカモフラージュ(偽装)に過ぎない。

つまり普遍的に抑圧と搾取を本質とするのだが、それはナショナルミニマム(最低限の権利保障)によって担保されるのであり、統治能力とは既得権益と国民生活をどう拮抗させるかというバランス感覚であるのだが、この前提において、我々の体系はもはや国家ですらないのだと思う。

すなわち政治集団、経済集団、官吏集団という上部構造が各々の短期利益に腐心するみであり、彼らのうち誰一人として民族集団を全体視していないわけだ。

存在するのは、相貌のない不特定の有責者であり、何者かに埋設された実効命令群であり、このような一切の道徳原理を排除する異様な無機質さは、意思決定が人格によるのではなく、利潤増殖を企図する二進法プログラムによるかのようであり、つまり我々の生命すら投資社会においては、ポートフォリオ(資産の構成要因)の一部に過ぎないのだろう。

汚染ガレキが全国に拡散され、核物質が希釈されているのだがそれが惨事便乗型ビジネスの制式であり、多国籍企業による需要創造活動であり、また疾患率の平準化によって賠償回避を狙う行政機構とのアライアンス(連携行動)であることは、もはや疑いがない。

残された水源と農地が汚染され、疾患が蔓延し、食糧自給が壊滅したところでTPPが発動するのだから、医療市場、食料市場、保険市場において外資が莫大な利潤を確定することは明らかだ。繰り返すが、この時代において、もっとも金になるビジネスモデルは売国である。

富山県では右翼集団が、ガレキ拡散に抵抗する住民に対し、威嚇と妨害を行っているのだが、これほど馬鹿げた話しもないだろう。そもそも右翼のアイデンティティとは、民族社会と国土の保守にあるのだが、連中は間逆にその破壊者の側に立ち、擁護しているのであり、おそらく東京電力の筆頭株主が、アライアンス・バーンスタインという外資ファンドであることすら理解していないのだろう。

「国士」を自称する馬鹿者達が海外勢力の手先となり、住民らを「非国民」呼ばわりし、子供を被曝させ、領土の剽窃を幇助しているのであり、それがビジネス(その筋からの金と教唆によるもの)だとは分っているが、ここまでくると怒りよりも、あまりの馬鹿さ加減に驚倒し、クラクラと眩暈がするわけだ。

日本経団連、経済同友会、日本商工会議所の3団体は、いまだ「国益のため原発を再稼動すべき」などと妄言を呈しているのだが、福島原発から放出された核が、企業資産や生産設備にまで及び、経済市場と消費者を破壊し、自社の株式や債券に莫大な毀損をもたらしつつあることすら理解できないのだろうか?結局、放射線は彼ら自身とその家族にも及ぶのであり、豪華な葬式を挙げられことはできるのだろうが、墓場にまで金をもっていくことはできないだろうに。

つまるところ、この体系における資本主義は、経済集団と経済市場のデカップリング(協同していたものが分離すること)によって終焉しようとしているのであり、それはむしろ「国家は悪によらず愚によって滅びる」という低次な法則発動であり、我々の崩壊は近未来に歴史教訓として刻まれることになるのだろう。

【転載終了】

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